시라카와 천황

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Mimian (토론 | 기여)님의 2015년 7월 6일 (월) 01:32 판
시라카와 천황
일본 일본제72대 천황菊の御紋
재위 1073년 1월 18일 ~ 1087년 1월 3일
전임 고산조 천황
후임 호리카와 천황
이름
사다히토(貞仁)
묘호 조보다이인능(成菩提院陵)
신상정보
출생일 1053년 7월 7일
사망일 1129년 7월 24일
부친 고산조 천황
모친 동궁비 후지와라노 시게코
배우자 후지와라노 카타이코

시라카와 천황(일본어: 白河天皇, 백하 천황, 1053년 7월 7일 ~ 1129년 7월 24일)은 일본의 제 72대 천황으로 사다히토(貞仁)이다. 아들인 제73대 호리카와 천황때부터 시작하여 제74대 도바 천황, 제75대 스토쿠 천황에 이르기까지 3대 43년간 원정을 펼쳤다. 이것을 「치천의 군(治天の君)」이라 한다.


약력

엔큐4년(1072년) 20세에 즉위하여 섭관가 후지와라 가문의 권세를 약화시키는 데 노력을 기울인다.

오토쿠 3년(1086년) 병사한 황태자 대신 8세의 아들을 황태자로 내세운 다음날 양위하였다.(제73대 호리카와 천황) 시라카와인(白河院)에서 상황 자신이 정무를 맡는 이른바 원정(인세이, 院政)이 출현했다. 이후로 임명된 셋쇼간바쿠는 명목상의 존재에 가깝게 되었지만, 시라카와 상황 역시 당초부터 강한 권력을 가지고 있던 것은 아니었다. 재위 당시부터의 간바쿠였던 후지와라노 모로자네와는 협조 관계를 유지하여 친정기 및 원정 초기에는 섭관 정치와 큰 차이는 없었다.

이러한 상황은 모로자네의 급서에 의한 섭관가 내부의 혼란 및 호리카와 천황의 사망으로 어린 손자인 도바 천황이 즉위한 것이 계기로 바뀌게 된다. 어린 천황(도바 천황)의 재출현과 정치적으로 미숙한 젊은 섭정(후지와라노 다다자네)의 등장이 시라카와 상황에게 권력이 집중된 결과를 낳게 되었다고 짐작된다. 실권을 장악한 법황은 중하류 귀족 및 무가 출신의 신하를 임용해 전제적인 정치를 실시했다.(1129년) 사망하였다. 향년 77세.

가계도

  • 중궁(中宮) : 후지와라노 카타이코(藤原 賢子) (1057~1084) - 미나모토노 아키후사(源 顕房)의 딸이자 후지와라노 모로자네(藤原 師実)의 딸
    • 제1황자 : 아츠후미 친왕(敦文 親王) (1074~1077)
    • 제1황녀 : 야스코 내친왕(媞子 内親王) (1076~1096)
    • 제3황녀 : 요시코 내친왕(令子 内親王) (1078~1144)
    • 제3황자 : 타루히토 친왕(善仁 親王) - (호리카와 천황)
    • 제4황녀 : 요시코 내친왕(禛子 内親王) (1081~1156)
  • 뇨고(女御) : 죠쿄덴노 뇨고(承香殿女御) 후지와라노 미치코(藤原 道子) (1042~1132) - 후지와라노 요시나가(藤原 能長)의 딸
    • 제2황녀 : 요시코 내친왕(善子 内親王) (1077~1133)
  • 텐지(典侍) : 후지와라노 츠네코(藤原 経子) - 후지와라노 츠네히라(藤原 経平)의 딸
    • 제2황자 : 카쿠교 법친왕(覚行 法親王) (1075~1105)
  • 텐지(典侍) : 미나모토노 모로코(源 師子) (1070~1149) - 미나모토노 아키후사(源 顕房)의 딸이자 중궁 카타이코의 동생
    • 제4황자 : 카쿠호 법친왕(覚法 法親王) (1092~1153)
  • 쇼지(掌侍) : 미나모토노 모리코(源 盛子) - 미나모토노 요리츠나(源 頼綱)의 딸
    • 제5황녀 키미코 내친왕(官子 内親王) (1090~?)
  • 궁인(宮人) : 미나모토노 요리코(源 頼子) - 미나모토노 요리츠나(源 頼綱)의 딸이자 모리코의 언니 또는 동생
  • 궁인(宮人) : 카스가노도노(春日殿) 후지와라씨(藤原氏) - 후지와라노 모로카네(藤原 師兼)의 딸
    • 제5황자 : 쇼에 법친왕(聖恵 法親王) (1094~1137)
  • 궁인(宮人) : 후지와라씨(藤原氏) - 후지와라노 스에자네(藤原季実)의 딸
    • 제6황녀 : 노부코 내친왕(恂子 内親王) (1093~1132)
  • 궁인(宮人) : 미나모토씨(源氏) - 미나모토노 아키후사(源 顕房)의 딸
    • 황자 : 죠쇼(静証)
  • 궁인(宮人) : 미나모토씨(源氏) - 미나모토노 마사나가(源 政長)의 딸
    • 황자 : 교케이(行慶) (?~1165)
  • 궁인(宮人) : 미나모토씨(源氏) - 미나모토노 아리무네(源 有宗)의 딸
    • 황자 : 엔교(円行) (1128~1143)
  • 궁인(宮人) : 기온노 뇨고(祇園 女御)
  • 궁인(宮人) : 기온노 뇨고(祇園女御)의 여동생
  • 궁인(宮人) : 로노 온카타(廊御方) - 후지와라노 미치스에(藤原 通季)의 딸
  • 궁인(宮人) : 카모노 뇨고(賀茂女御) 宇礼志岐(1070~1148) - 가모 가사스케(賀茂 重助)의 딸
  • 궁인(宮人) : 카모노 뇨고(賀茂女御) 伊波比乎 - 가모 가사스케(賀茂 重助)의 딸

인물

  • 자기 뜻대로 되지 않는 세 가지, 즉 천하삼불여의(天下三不如意)에 대해 말한 것이 유명하다. 「헤이케 이야기」에는 「가모카와의 물, 주사위의 눈금, 히에이 산의 승려」만은 마음대로 할 수 없다고 한탄했다는 일화가 실려있다.


幼い時は父子ともに冷遇され、母茂子とも幼少時に死別したが、治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け貞仁親王となる。翌延久元年(1069年)立太子、同3年(1071年)藤原師実の養女藤原賢子が入内、同4年(1072年)、20歳で即位する。関白は置いたが、延久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ、永保元年(1081年)宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等[1]、摂関家の権勢を弱めることに努める。また摂関家内部でも関白の地位をめぐる藤原教通・信長父子と師実の対立があった。

後三条院とその生母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反藤原氏の貴族の意志もあり(白河天皇は藤原茂子を母親としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年(1086年)11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。

ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位が目的であり、善仁親王の母親は師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白・藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。

それが大きく転換したのは、師通の急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代鳥羽天皇の即位が契機であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。

政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。特に叙位・除目に大きく介入し、人事権を掌握する。鳥羽天皇践祚後最初の除目である嘉承3年正月の除目では、近習の多くを実入りの多い国の受領に任じた。藤原宗忠はその態度を「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評している[2]。この除目以降、院の人事介入は「任人折紙」(にんじんおりがみ)という非公式の文書を、天皇や摂政に渡すことで行われた[3]。武士は、院の警護役として創設した北面武士などにあてた。特に康和4年(1102年)と保安元年(1120年)の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことは、摂関の権威の低下を内外に見せることになった。更に実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては、親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した(法親王制度の創設は彼らへの慰藉の側面もある。なお、崇徳の異母弟である近衛天皇の誕生は白河院の没後である)。

熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096年)には鍾愛する皇女・媞子内親王の病没を機に出家し、法名を融観として法皇となった。また、法勝寺などの多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領のものを活用し、成功がより一層横行するようになった。

堀河天皇崩御後は、自らの孫である第74代鳥羽天皇、更に曾孫の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「治天の君」と呼ぶようになる。

大治4年7月7日(1129年7月24日)、77歳で崩御した。


女性関係


中宮・賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前の間で記録に残っている妻妾は、女御・藤原道子、典侍・藤原経子程度であり、数は必ずしも多くない。しかし、賢子の死後は身分を問わず非常に多数の女性と関係を持ち、加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。

また奔放な女性関係と併せて男色も好む傾向があり、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。


天下三不如意

『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。

「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害のこと。「双六の賽(さい)」とは、文字通り双六の二つのサイコロが出す「賽の目」のことである[4]。「山法師」とは、勝手な理由にかこつけては日吉山王社の神輿を担いで都に雪崩れ込み強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧衆(僧兵)のことである。

法皇がこの三つだけはどうしても思うようにならないと愚痴をこぼすぐらいだということで、やがてこれが「天下三不如意」として広く一般にも知られるようになった。今日ではこれを、白河法皇の権力はこの三つ以外のものであれば何でも思い通りになると豪語するほど絶大なものだった、という逆説的な意味に取ることが多い。しかし「賀茂河の水」は「天災」、「双六の賽」は「確率」であって、これらは誰が何をしようとしてみてもそもそも思い通りになるものではないのに対し、「山法師」は名目こそは「神意」であってもその実は「政治」に他ならなかった。既成の優遇措置を朝廷が他の寺社にも与えようとしたり、寄進された荘園を国司が横領しようとしたりするたびに、延暦寺は山王社の暴れ神輿を盾に、公卿百官を力で捻じ伏せていたのである。「天下三不如意」の真意は、この延暦寺に対して打つ手もなく苦悶する白河法皇の姿にある。