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이소노카미 신궁[편집]
ja:石上神宮 틀:神社 石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(現在は神社本庁の別表神社)。中世には二十二社の中七社のひとつとされた。
別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、石上神社、石上社、布留社、岩上大明神、布留大明神、等。付近で立教した、天理教の初期資料で、幕末 - 明治期に地元では『いわがみさん』と呼ばれていた事が判る。
尚、『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば、日本最古設立の神宮となる。
祭神[편집]
現在は、布都御魂大神を主祭神とし、布留御魂大神、布都斯魂大神、宇摩志麻治命、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣を配祀する。
布都御魂大神は神体である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊である。布都斯魂大神も天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊で、布留御魂大神は十種神宝に宿る神霊のことである。市川臣は、孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後裔で、当社社家の祖である。
歴史[편집]
古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
天武天皇3年(674年)には忍壁親王を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
神階は850年(嘉祥3年)に正三位、859年(貞観元年)に従一位、868年(貞観9年)に正一位。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。
中世以降は布留郷の鎮守となったが、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。
祭事[편집]
- 歳旦祭(1月1日)
- 元始祭(1月3日)
- 古神符焼納祭(1月15日)
- 玉の緒祭(節分前夜)
- 節分祭(節分当日)
- 祈年祭(2月19日)
- 献燈講講社大祭(第1日曜日)
- 春季大祭(4月15日)
- 長寿講社春季大祭(5月3日)
- 神剣渡御祭(でんでん祭)(6月30日)
- 大祓式(6月30日)
- 崇敬会大祭(第1日曜日)
- 榜示浚神事(10月1日)
- 例祭(ふるまつり)(10月15日)
- 長寿講社秋季大祭(11月3日)
- 鎮魂祭(11月22日)
- 新嘗祭(11月23日)
- お火焚祭(12月8日)
- 天長祭(12月23日)
- 神庫祭(12月31日)
- 大祓式(12月31日)
- 除夜祭(12月31日)
- 月次祭(毎月1日・15日)
摂末社[편집]
- 摂社 出雲建雄神社(祭神 出雲建雄神。式内社)
- 摂社 天神社
- 摂社 七座社
- 末社 猿田彦神社
上記4社は拝殿よりも南であるが、石段の上の隣接した高い位置に有り、拝殿前の中庭から見ると、楼門がまるで4社の楼門であるかの様に見える。地理的制約からこの構造となったというのが通説だが、重要な神とされており、何か意味があるのかも知れない。
尚、斎宮が居た場所は、上記4社(西向)の真裏(東隣)と伝えられる。
- 末社 神田神社
- 末社 祓戸神社
- 境外末社 恵比須神社
文化財[편집]
- 国宝
- 拝殿-入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代。
- 摂社出雲建雄神社拝殿(せっしゃいずもたけおじんじゃはいでん)-内山永久寺(天理市杣之内町にあった廃寺)から1914年に移築したもの。正安2年(1300年)頃の建立。建物の中央部分を土間の通路とした「割拝殿」と呼ばれる形式。
- 七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)-銘文の中に369年に当たると推定される「泰和四年」の年紀が刻まれ、刀はその頃に百済で製作されたと考えられている。-別項「七支刀」参照。
- 重要文化財
- 楼門-文保2年(1318年)建立
- 鉄盾二枚-古墳時代。出土品でなく伝世品。
- 色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)-「腹巻」は甲冑の一種。
- 禁足地出土品(勾玉・管玉・環頭大刀柄頭 等)その他
- その他
- 朱札紅糸素懸威鉄腹巻(しゅざね くれないいとすかけおどし かなはらまき)
- 黒塗練革星兜鉢(くろぬりねりかわ ほしかぶとばち)
- 十六間筋兜鉢
- 古備前義憲作太刀 小狐丸
柿本人麻呂の歌碑[편집]
未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者(おとめらが そでふるやまの みずがきの ひさしきときゆ おもいきわれは)
『概訳』と説明:
「乙女等が袖を振る」は、布留山に掛かる、一種の枕詞。(乙女等が袖を振る→好きな人の魂を呼ぶ呪術的行為:呉服で、既婚婦人が留袖を着る由縁)
『布留山(石上神宮の背後の神山、転じて石上神宮境内)に瑞垣(拝殿背後の禁足地の垣)が出来た昔から あなたのことを思っていました。』
柿本氏は、「かきのもと」の音からだろうか、神域・宮殿・殯宮(あらきのみや:もがりをする宮)・古墳等の瑞垣を守ることを職掌としていた可能性を指摘されることがある。また、石上神宮は、死者も蘇らせるという十種神宝の呪術でも有名で、その情景が歌と重なる。
忌火(いんび)職[편집]
皇室・出雲国造と同じく、世襲の忌火職があり、江戸時代まで物部氏の本宗として、代々森家が務めた。現在の宮司も森家出身。
忌火とは、本来神饌を煮炊きする、火鑽(ひきり)によって得た神聖な火の意味。石上神宮の長官職を意味し、皇室の大嘗祭、出雲国造の火継式(神火相続式)に似た、神主の忌火成り神事が行われた。
酒殿社(現存せず。柿本人麻呂の碑の西にあった。同地より、胴径160cmの巨大な古墳時代の須恵器大甕が発掘されている。)に臨時の清浄殿が設けられ、神主はそこに籠もり、忌火が鑽り出され、その火によって神聖な食事をし、現人神となった神主は、比礼(千早?)を肩に掛け、布留山の榊・梅の楚(すわえ:若枝のこと)を持って行進し、忌火になったことを示した。
桃尾(もものお)の滝の石上神社[편집]
石上神宮の東方約1.5kmの布留川上流の山中にある落差23mの桃尾の滝への上り道の途中、滝から南方200mの所にある祠。
石上神宮の元宮との伝説がある。
明治期に廃絶し、義淵を開祖とする桃尾山 蓮華王院 龍福寺の旧境内に鎮座。中世には真言密教・修験道の道場として知られていた。行基や空海も訪れたと言われている。特に空海については、東寺にも石上神社があることから関係が注目される。桃尾の滝には白龍大神の碑や不動明王の石像等がある。龍神祝詞には十種神宝について述べられている箇所があることから龍と石上神宮の関係は興味深い。また、桃尾を、饒速日尊が降臨した地とされる「とび:鳥見?」と読む異説もある。
参考文献[편집]
- 『日本「神社」総覧最新版』1996年刊 新人物往来社
- 『石上神宮』1999年刊 石上神宮社務所
- 『古代を考える 山辺の道 古墳・氏族・寺社』 和田萃 編 石上神宮禰宜白井伊佐牟 1999年刊 吉川弘文館